こんなことがありました!

震災から10年、ふくしまの今とこれから

 東日本大震災から10年になります。

 数多くのかがえのない命が失われ、かつてない被害をもたらしました。今もなお、不自由な避難生活を送られている方々がいます。

 小野田小学校では、東日本大震災のことを風化させずに、子どもたちに当時のことを伝えていきたいと、毎年3月11日に全校集会を開いてきました。

 今年度は、感染症予防対策として、放送で行いました。防災担当の先生が、全校生伝えた内容をお伝えします。

 

 「みなさん、10年前の今日、どんなことがあったかわかりますか。」
 東日本大震災があった日です。6年生のみなさんも2歳ぐらいの時でした。
 みなさんも、2月に大きな地震を体験しましたね。夜でとても怖かったと思います。


 今から10年前の2011年3月11日(金)午後2時46分に、マグニチュード  Mw 8.8、最大震度7の大地震が起こりました。

 震源の三陸沖に(仙台市の東方70km)、東北地方を中心に3分以上揺れました。地震につづけて大きな津波が起こり、午後3時過ぎから4時ごろにかけて、東日本の太平洋側の地域が大きな被害を受けました。津波の高さは9m以上といわれ、建物の5階まで浸水した地域もありました。亡くなった人は1万5899人。そのほとんどが津波によるものです。
   東日本大震災は、地震そのものの影響に加えて、津波、火災、停電、福島県 はそれに加えて福島第一原子力発電所の事故など、大規模な災害となりまし  た。
       
 これから、岩手県の釜石市というところの中学生がとった行動を紹介します。
 岩手県の釜石市では、1300人の人が亡くなったり、行方がわからなくなったりしました。でも、その地区の小学校と中学校の子ども達570人は、全員無事に避難することができました。これは、「釜石の奇跡」と呼ばれています。 2011年3月11日、午後2時46分、約3分間に及ぶ激しい揺れがつづいた後、中学校の副校長先生は、校内放送で避難を呼びかけようとしましたが、地震による停電にため、放送が使えなくなっていました。しかし、校庭で部活動をしていた中学校の生徒たちは、「津波が来るぞ。逃げろ!」と校舎に向かって大声で叫びながら校庭を駆け抜けていました。中学校の子ども達は、その声を聞いてこれに続きました。中学校の隣にある小学校の子ども達は、3階に避難しようとしていました。しかし、日頃から一緒に避難訓練をしていた中学生が一斉に避難する様子を見て、小学校の子ども達は、自らの判断で校舎から出て、中学生の後に続きました。
 こうして子ども達は無事、避難先に決まっていた場所に到着することができました。しかし、その場所の崖が崩れかけている様子や、津波が防波堤にあたって舞い上がる水しぶき、津波が家をのみこんでいく様子を見た中学生が、子どもの人数を数えている先生に「ここじゃだめだ。」と言って、さらにその先の高台へと避難することを提案しました。再度全員で避難する様子を見た、近くに住む大人達もそれにつられて共に避難しました。そして、全員が無事避難し終えたそのわずか30秒後、津波は避難した場所の目の前まで迫ってきました。迫り来る津波を見た子ども達は、さらに高台に避難しました。その後、学校や町は津波にのまれてしまいました。
 このお話を聞いてみなさんは、どんなことを思いましたか。どうして、助かったのでしょうか。
子ども達は、単に運が良かったのではなく、日頃から行っている訓練を当たり前に実践し、その結果が命を守ったのです。


 小野田小学校でも、避難訓練をしていますよね。予告なしの避難訓練では先生がついていなくても、じぶんで判断して行動し、避難することができましたね。訓練であっても真剣に取り組むことが、「自分の命は自分で守る。」ことにつながります。釜石市の話を聞くと、訓練がどれほど大切なことなのかがわかると思います。
 地震だけでなく、津波や火災、風水害、原子力災害など災害には、いろいろなものがあります。どんな災害も、もし起きたときにどうすればいいか、どうやって連絡を取り合うか、集合・避難場所をどこにするかなど家族で話し合っておくことも大切ですね。

 3階スペースには、その当時の新聞と被災地を見た方の手紙をおいておきます。ぜひ読んでみてください。

 

 震災発生時刻(午後2時46分)に震災で犠牲となられたすべての方々に哀悼の意を表して、黙とうを行いました。